礒山雅氏の講演などを。

本日は久々に鈴鹿へ、と。鈴鹿短大というところでやっているライフセミナという公開講座でかねてから尊敬してやまない礒山雅氏が話をする、というので馳せ参じました。昨年9月に続いて2度目ですね。

今回は「バッハの宗教性を考える」というタイトルでのお話でした。数多の宗教曲を遺し、ともすればキリスト教音楽家ともみなされることの多いJ.S.バッハですが、ではそれはどういうレヴェルでそうであると言えるのか、それは本当にそうなのか、一体バッハの信仰とは、あるいはその信仰と音楽との関係はどのように考えるべきなのか、という大変興味深くもあり、難しくもある内容でした。

礒山氏の見解をまとめるならば、

・バッハはあくまでも職業として宗教音楽を作っていたに過ぎない、というような説には与しない。バッハが所有していた聖書や神学書への書き込みからもそれは裏づけられるであろう。
・かと言って、バッハはファンダメンタルなルター派宗教者として生涯音楽を作り続けたいたわけではない。
・実際バッハは、世俗曲も多数遺しているし、カトリックのためのもの、あるいはカルヴァン派のためのものさえ作曲している。
・また、宗教曲には世俗曲からの転用が多々認められるし、逆のことすらある。
・要するに、バッハは宗派間の対立、政治的利害関係の中でそれを客観視し、より柔軟な態度で作曲に臨んでいたのだが、そのことにより時代、国境を越えて広く愛される、という結果を生んだのではないか。

ということになるでしょうか。

こういう話だったのですが、わたしがとても関心を持ったのは次のことです。実は西洋音楽には宗教曲と世俗曲の間に截然とした境界が存在するように考えられていて、ほとんどの楽曲はどっちかに分類されます。しかし、歌詞のレヴェルで見れば確かに区分可能だとは思うのですけれど(はっきりしない例は多々ありますけれど。)、それは実のところ音楽的レヴェルで見ればはっきりしないわけです。宗教曲に舞曲のメロディやリズムが入り込んでいることについて、どう考えれば良いのか。

礒山先生にその辺りのことについて少々伺ったのですけれど、グレゴリオ聖歌の流れを強く持っているカトリック音楽と、そこから一線を画しているプロテスタント音楽では大きな違いがある、後者はより自由度が高いのかも知れない、というお話でした。深いですね。バッハについて言えば、基本的にはプロテスタント音楽を指向しているのだけれど、様々な事情でカトリック的な要素もそこに入り込んでいき、両者が醸し出した見事な化学反応により一連の名曲群が創り出された、ということになるのかな、という感想を抱いた次第です。

良い演奏をするためには作曲家の内面に踏み込まないといけない、と常々考えているのですけれど、まだまだ知るべきこと、考えるべきことは多いですね。更なる研鑽を積みたい、と思います。

と、云う事で。